久能山東照宮 くのうざんとうしょうぐう

久能山東照宮
久能山の歴史

久能山は推古天皇の時(西暦600年頃)久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て観音菩薩を安置し、 補陀落山 ぶだらくさん 久能寺と称したとあり、久能山の名称もこれから起こったと思われます。

その後、僧 行基 ぎょうき をはじめ多くの名僧が相次いで来たり住み建物の数330坊も建ち並んで非常に隆盛であったが嘉禄年間(1225年頃)山麓の失火によって類焼し、昔の面影はなくなったのでありました。

永禄11年(1568年)武田信玄は久能山が要害であることを聞き久能寺を近くの北矢部(静岡市清水区、今の 鉄舟寺 てっしゅうじ )に移し山上に城砦を設け久能城と称しました。

天正10年(1582年)武田氏亡び、駿河の国一帯が徳川氏の領有するところとなったので久能山も自然徳川氏のものとなったのでした。

元和二年(1616年)4月17日家康公の薨後、久能城を廃止し、東照宮を建立し現在に至っています。

久能山東照宮

東照宮の御祭神である徳川家康公は天文11年(西暦1542年)12月26日、三河国(現在の愛知県)の岡崎城でお生まれになりました。時は戦国時代、ご幼少のころより人質のご身分であった家康公はあらゆる艱難辛苦を跳ね除け、遂には天下を統一し征夷大将軍の座に就かれました。戦国時代の混乱は家康公の治世によってたちまち回復し、あるゆる産業、学問、文化が花開いた「太平の世」が始まったのです。

晩年を駿河国(現在の静岡県)駿府城で過ごされた家康公は、元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を結ばれました。亡くなる直前、余命いくばくもないことを悟られた家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。ご遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠公は久能山に徳川家康公を祀る神社を造営することを命じました。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮です。

社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「 権現造 ごんげんづくり 」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされました。また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけましたが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されました。

駿河国 久能山東照宮 四百年の歴史がいま蘇る

久能山東照宮がかねてより実施していた御社殿の大改修が完成いたしました。

創建当時の極彩色きらびやかな色彩と江戸時代の技巧の極みが今の世に甦ります。この機会に先人の匠の技の素晴らしさと受け継がれる伝統をあなたの目でお確かめください。

久能山東照宮